昭和44年06月15日 朝の御理解



 御理解 第48節
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 言う事を聞かぬ時、ままよと思うてほっておくような気になってと、そういう気になってと。この所が難しい所だとこう思いますよね。これはどうでも良いと、もうどうなっても良いと捨て鉢的なものではないのですね。けれどもその捨て鉢的なその気持ちと良く似ておるんです。ほっておくような気ですから、どげんなったっちゃ良かという。ですからそういう気になって信心してやれおかげを受ける。この信心してやれと。この信心のいかんによってですね、そのほっておくような気が安心に変わって来る訳です。
 ここのところが私は一番大事じゃないかと、こう思うですね。ほっておくような気になる。それは言うなら捨て鉢的な気持ちになるようなもんですけれども、そこにはちょっと違いますけれども、いわばそうなりますですね。もう知らんぞともう構わんぞと言うのですからね。子供がいう事をきかん時に、だからそのいう事をきかん時に、知らんぞ構わんぞと言う気になっただけではね、おかげは受けられんのです。これ例えばほんなら病気じゃなくてもわが例えをわが子と言うてございますから。
 わがあの子がいわゆるここに言う、いう事をきかん時ですたいね。こりゃ病気と言うてある。けどもここにはいう事を聞かぬときと仰る。言うことを本当に子供がいう事をきかんとは病気じゃないですよ。言うことを聞かぬ時にです。「ほんならもうあんたが良かごとせんの」と。まぁ言いますねこの辺の言葉で。もうお父さん知らんよと。お母さん構わんよと。あんたが良かごとしなさいと。という時がありますけれども、それだけではおかげは受けられんのですよ。
 もう本当にかまわんと言う気にね、気になって信心してやれとこう仰るのだから。そこに私共が分からなければならんとこはそこだと。それではね。それではその子が立ち行かんです。例えこれが病気の場合であってもそれでは助からん。ほんなら言うことを聞かん時でも親の言うことに、いわば素直でないとか言うことを聞かん、違った道を歩いていくと。それではその子が立ち行かんからね。ほんならもう構わんぞという気になって、信心してやれとこう言うのですからね。
 最近私が言う黙ってその事を受けて、そして与えてやる。神様はそれでは子供がかわいそう。それでは子供が立ち行きません。まぁいうならば子供の病気は親の病気として、子供が言うことを聞かんという事は、私の親の不徳としてでねす、まぁお詫びをする。本気でお詫びをする。本気で改まらせて貰うて信心してやるわけです。いわゆる信心をさして貰う。そこからですはっきりおかげが受けられると言うておられます。そこんところのおかげはもう言うなら親も子も子供も助かるだろうが。
 親もその事によって徳を受けるような感じですね。ですからその黙ってほっておくということの出来れる、安心とでも申しましょうかね。そこんところが色々あると思うんです。いわゆる信心してやれと言う所がですね。場合にはお詫びし抜いて本気でお詫びし抜かせてもらうところからです。心の中に神様がね許されたという実感の頂けるところまで、お詫びに徹する。またここはどうでも助けてもらわなければならん。実際に子供がここに病気をしておる。その子供の病気しておる事はもう神様にお任せしてね。
 だからその任せただけじゃいかんのですよね。神様にお任せして自分は本気で信心、ひと修行その事によってさせてもらおうという、まぁいわば願いの信心でしょうがね。いわゆるその心配になる事は、お取次ぎを頂いてです。それはもうお取次ぎの働きに、ゆだね任せて、その事はもう親先生にお任せして、だからお任せしててそこまでではいけんのですね。それはちょうどその放任してやる事だけになる。放任することになる。そういう放任したような気になって、信心してやれということですからね。
 神様にゆだねると。神様にお願いをする。お任せする。お任せをしていわば信心してやれというところ。そこんところのおかげがです。そこでまぁほんなら子供のここに病気と言うておられるから、その病気を例に取りますと子供がそういう状態だと、もう本当言ったら手も放されんように子供が重態だと。神様にお願いをする。そこからいわゆる神様にお任せをする。これから先きゃもう神様が助けて下さろうが、お引取り下さろうが神様にお任せしたと。と言うて安心したのではそれは本当の安心じゃないですよね。
 だからそこからの信心が求められておるわけですねここでは。そしてそこからの信心がです。願いの場合もあろう詫びの場合もあろう。親の不徳のためにこういう結果になったとして、詫びて詫びて詫び抜かせて貰うて、そこに私がいけなかったここのところを改まって参りますからと、お詫びをさせて頂いてお詫びの修行が出来ておるうちにです、本当に生まれてくるままよと言う心がある。それを安心というのである。そこから生まれてくる安心。お取次ぎを頂いてお願いをしたからもうそこで安心。
 これは私はあまりもの信心だと思うこの辺が難しい所。と言うてお取次ぎを頂いても尚且つその心配をまた持って帰る様な事ではいけないとこう思う。それが不安であればあるほど心配であればある程、いわゆる心証言うて言う事を聞かぬ時に、ままよという気にと言う様な心になる所まで、放任しておるということと同じようなですね、気持ちになる所迄、信心が求められる訳です。不思議ですよね。どんな心配な時でも神様へ本気で打ち向かうと、その事が段々段々心配が薄らいでくるんです。
 そして今言うこれをいわゆるままよという心が生まれて来る。そこからです言うならばこれほどお願いをして、またこれ程のあり難いお取次ぎを頂いて、これ自分としてもこれだけの、いっぱしの信心させて頂いて、右になる左になるという事はです、もう神様にお任せする出来るという。本当のお任せというのはそこだと思う。お取次ぎ頂きゃ安心。もう何があっても、お取次ぎさえ頂いときゃ安心ですがというのでは、あまりもの信心だということ。
 お取次ぎを頂いて、そしてそこからいわゆるままよという気になって、信心してやれというところがある訳ですね。信心してやれとここにはね色々なその問題がある。色々なことをこの四十八節からは受け取らせて頂けれるですね。久留米の初代石橋先生のご長女であります方が、唐津の教会にお嫁に行かれる事になったんです大変な、御徳者でありますし沢山な勿論しつけが神様にお願いをして、出来られたんですね。まあ沢山なはなむけを、あっちこっちから沢山集まったんです。
 私はそこでですね石橋先生が、そのご長女に言っておられる事は、どういう事かというとですね。「お前がこれ唐津に縁について行くが、まぁこれだけの沢山なしつけがまぁ言うならでけた。これだけのもん持って行けれる事になったが、これを持って嫁に行ったが良いか、それともこれをね全部売り払うて、金にしてこれを親教会と御本部にお供えさせていただいて、その徳を持って行ったが良いか」と言う風に、まぁ言われたらしいですね。それは例えばどんなに箪笥長持ち持って行こうが。
 どんなに沢山の着物を持って行こうがですね。お徳がないのだったらお徳がなかったら、例えば行った先の教会で人が助からん。「そらお父さん御徳を頂いていったが良い」と、こういう風にご返事をなさったんです。そんならというのでそれを全部売り払われて、金に換えられて、そしてまぁ言うならまぁ私はその真相という事は本当に知りませんけども、まぁ身体ひとつのようにして、唐津におい出られたという事でございます。そこに例えば今日のご理解から言うとですたい。
 石橋先生のご信心を伺われる訳ですけれどもね。神様を信じきっての事ですけれども。確かにお嬢さんが唐津の教会に行かれたそのころから、唐津が御比礼が立ち出したとこういう。まぁそれだけではないと思いますよね。お話の中にありますように、姪浜が大変な御比礼を頂かれた。それこそ御大祭に何十俵という、お供えが出来るようになられた。そん時に姪浜の先生がね。はぁ本当に自分もおかげを受けたもんだと。
 けどもまぁ自分の信心も、まぁある意味合いで大したもんだなぁと言う様なものを、感じられたと同時にですね。その福岡の初代であるところの、吉木先生の御霊様のお声でね、「唐津に行くぞ」というお声を頂かれた。しもたっと思われたけれどももう、すでに遅かったと。そしてそれを境に唐津が御比礼が輝きだしたとこう言われております。ですからどちらがどうとは言えません。久留米のいわばお嬢さんが唐津においでられたから、御比礼が輝いたのか。
 又はそういう特別な親教会であるところの、福岡の教会の初代の御霊様の働きが特別に、唐津の上にあったから、御比礼が輝いたのか、それはどちらとも言えん。まぁどちらもでしょうね。ところがですここにひとつ、もう本当の金光教の信心を、私は分からにゃいけんという事。言うならばですよ。まぁ例えて申しますと私の方も、今娘の今度の縁談の事で、色々皆さんがご心配して下さって、昨日は京都のなんち言うでしょうか、あのう大変まぁ老舗。
 非常にその品質本位で行かれるお店さんの展示会が、二日市のホテルでございました。それで昨日が一番閑散ですから、まぁいうなら合楽で借り切ったようにして、その展示会を初めて展示会というのを見せて頂きました。それこそもう本当にまなんち言うですかねえ。そら大変な事ですねえ。勿論どれが幾らするか値段も聞きませんでしたけれども、まぁしかし有難い事だと思いましたですね。呉服屋さんばっかりが七人集まっておりました。家のご信者さん方。秋永先生たちが兄弟三人。
 それに麻生さんそれにむつやから二人来ておりましたから、六人ですかね六人ですか。もうその人達が見立ててくれる訳です。まぁそれこそ勿体ない話でございますけれども、それを例えば合楽では娘が持っていこうというのである。まぁどれだけの金額になるか分かりませんぐらいに、そのまぁ立派なもんばっかりでございました。だからこれは石橋先生のいき方とは全然違ったいき方。ところがですね。私はそこに思うのにね。石橋先生としてもお嬢さんとしてもですね。
 それをお金に換えていかなければ、安心が出来られなかったというところに、私はひとつ思わなければいけんと思いますね。ほんならそれを持って行っても、安心が出来ておったら御比礼もくだろう、せっかく皆んなが真心で集まっておる、それも持っていけたと私は思うです。先日からある教会の奥様がお祝いに来て頂きまして、もうどげな大きな教会でも、今日それが私の豊美でも私の家内でもそうですけれども。
 それこそ家内なんかは布一寸、買わんというのが神様への私と家内は、それをお誓い申しておりますからね、買いませんでした。それこそ布一寸買いませんでした。そう言う例えば買ってもです、もうそれこそ教会でという生活は、もう本当慎ましいもんですから、着物一つ買うと言った様な事は先ずないです。勿論私の豊美なんかの場合なんかは、どこ行くでもそれこそ、まいうならば着たきり雀のような格好でどこへでも参りますから、もう本当に豊美さんの着物は、やっぱり作ってもらいござらん。
 持っちゃなかとみんなその方も思うておられたに違いない。でもあぁた、なぁんも用意をしてやっておりませんもんですから、と言うてからいえ教会というところは、どこでんここだけじゃありません、どこでん同じ事ですがとこういう事。私共も何十年教会に縁になってきとりますけれども、もう教会で作ってもらったてのは、まだほんの一枚もないと言うてその、奥様が言われるんです。だから果たし、そういうそれがですね。それが金光教の信心だということであったら、私は嫌だと思うね。
 例えばほんならこれ着物だけじゃありませんけれども、それこそ昨日見せて頂きましたようにです。もうぐうだん構え無しで行っとるもんですから、後からちょっと値段聞いて、はぁあれが一枚が二十万円もするとち、いうのを選りだしておる。例えばそういうようなのをですね、誰のために神様が作って下さっておるか。金光様のご信者以外のもののために作ってござるとか、そら金光様のご信者も含めて人間氏子のために、それこそ目も綾になるほどしの立派な着物でもです。
 神様が人間のために作って下さるんですもの、それを自分が身に付けられる程しのおかげを受けて、神様おかげを頂きますと、そこに私は有り難いという心を持ってです、私はそれを身に付けれるようなおかげを頂くこそ、本当は金光様のご信心じゃないかと思うのです。勿論そこには分相応というのがございますからね。そこに無理の行かない私はおかげを頂かせてもらう。無理の行かない例えば自分が百円もっとるなら、百円の範囲内で買わせてもらうもの。
 一万円もっとるなら一万円の範囲内でおかげを頂かせて頂くものであるならば、それを頂い受けそして有り難いとう心でです、それを使わせてもろうたり着せて頂いたりする事の方がです、私は本当言うたら有り難いのじゃなかろうか。けれどもこれは人間生身を持っておるのでございますから、そういうものが自分の身に付けられるという事になるとそこに慢心が出る。その慢心が怖いのであってです、大体言うたらそれを頂いて、有難いというお礼を申し上げさせて頂く事の方が、神様の喜びを頂ける。
 その神様のお喜びがです、また次のおかげに成って行くと言う様なおかげを受ける事が、有り難いと私は思う。これは石橋先生の信心が、どうこうというのじゃないです。そういう例えば厳しいものであると言う事と同時にです。また私の方で今度取らせて頂いておるいき方ね。ですからこれは大変実を言うたら難しいのでございますけれども、これはそれこそ色々な事情もあっての事でございますから、神様がそのような働きかけを下さってあると思うんですけれども、問題は今日のご理解からいうとですたいね。
 ままよという心になって信心してやれというところが、これは私の上に求められる訳なんです。神様が下さるなら下さるものを、つう一杯本当言うたら石橋先生当たりの様な大徳の方でもです、それを全部お金に換えて、お供えをして行かれりゃこげん安心な事はなかろう。こげん安心な事はなかろうけれども、しかしそれが金光様のご信心だという事になったら、私はいけないと思う。
 それが一つの手本のようになってから、石橋先生のなさった事が、手本のようになっていったら、それこそ教会いや金光様のご信心というのは、怖い事になって来ます。だから私はここに金光様のご信心をさして貰や、おかげを頂きゃこういうおかげも頂けるんだという、私は手本を作りたいと思う。それでいておかげの受けられていく、いわば私がそこに、まぁくそ度胸かもしれません。家の娘ぐらいが何百万円もの、例えば着物を持っていくというのですから。
 けれども借金があるとか、ご信者さんに無理が行くとか、そういうことは勿論さらさらあってはならない。このでも三百万ですかね。その景品が今企画の方で企画されておりましたが。けどとても三百万で足るまいという事になっている。けども神様が本当に五百万なら五百万でも集めて下さるならですよ、私はそれこそ度胸を据えて持たしてやろうと思うんです。ここんところをねいわゆるままよという心度胸なんです。
 だからただ立派なものば持たしてやれたと言うて、ただ親が有頂天になっておるというのじゃなくて、問題はその内容です。それから先はです「信心してやれ、おかげが受けられる」と仰っておられる。私はそこんところをその後の信心をしてやる事によって、またより良いおかげが受けられる道が、そこから開けて来る様なおかげを、私は願わせてもらい。石橋先生はこのようなお徳を受けるための、ギリギリ一生懸命の信心を手本に残しておって下さった。
 私はそれとは反対の事によって、おかげが受けられるお徳が受けられる信心を、それこそ私のはもういわゆる言う事聞かん時に、もうままよという心になったのと同じようにです。いわゆるくそ度胸です。本当に力ないのですから。それだけの力ないのだけれども、くそ度胸据えてからよし集まるものだけは、それを頂いて持たしてやろうとこう思う。その代わりにですその後がその、例えばくそ度胸と言った様なものがです、本当の度胸本当の安心になるところまで、私が修行させて頂く信心してやれと仰るから。
 信心してまぁやるまぁ信心させて頂こうと、まぁ私は思うのでございます。合楽の信心が他所とちょっと違うところは、そういうところじゃなかろうかと。いつも申しますように「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。」例えば今日今度の娘の結婚の事については、もういかにも桜の花がこう満開したような感じでおかげを受ける事であろう。だからその内容としてです、私はいよいよ柳のような素直さを身につけていこう、梅の花のような、いよいよ本気の信心辛抱の修行をさせて頂こう。
 桜の花のようなおかげの内容として、それがそれを今日私はお詫びとか願いとかという内容を申しましたですね。例えばこれは例えば何ですか、わが子が病気でもとか言う事を聞かんとかというのじゃなくて、わが子にですそれこそ、もう本当に勿体ない程しのおかげを、しつけをしてやれれるだけの氏子と同じ事です。それこそくそ度胸すえなければね。みんな委員会の方たちが、親先生あぁたそげなこつ百万円てんなんてん、今頃出来るはずはない。初めは百万円じゃった計上したのが。
 そげなこつは出来る筈はなか、と言うて次の企画の時に三百万になっとった。ところが三百万でも足るまい。ほんならどっからか借ってこじゃこてと、それは勿論ありはしません。そこで本当に神様が用意しておって下さるのであろうかと、思われるようなお繰り合わせの中にあってもです、いうならば信心も出来ぬ私ですから、それは本当にまぁ勿体なさ過ぎるというか、怖いようにある。そこでくそ度胸をすえなければならない事になってきた。ところがそのくそ度胸ではおかげは受けられんから。
 そのくそ度胸が本当の度胸になり、安心になるところに次の信心してやれという、そこがあるわけなんです。本当言うたら久留米の石橋先生のいき方で行ったほうが、一番堅実でありいわば間違いがないのであります。必ず御徳が受けられるでありましょう。けれどもそれが金光様のご信心だと、私はそこに新たな展開というかね、金光様のご信心を。金光様の信心すりゃ、あぁいうおかげも受けられるというものをですね、私は頂いていかなきゃ駄目だとこう思う。
 信心のない人が十万の着物きとるならば、信心のあるものは二十万の着物が着れれるくらいのおかげをいただかにゃ嘘だと私は思うんです。これは私の生き方なんです。そこの辺が桜の花のようにといわれるところじゃなかろうかと、こう思うんですけれども。ほんならそれは桜の花だけではない、その内容としては梅の花の信心があり、柳の信心があるというのである。そこんところを私共には欠けておる、そこんところをです信心してやれ、おかげが受けられるとこう言うておられます。
 今日は四十八節をそう言う様な風なところから頂いたね。これはもっと本当にこの度胸とかね、ままよという心とか。その先に生まれてくる、そのままよという心がそれこそ、どうとかなろうたいというようなものから、段々いわゆるくそ度胸から始まって、それが本当の度胸になった時にです。先日大和さんが頂いておられるようにね。不動産という事を頂かれた。動かざること山のごとし。もう確固たる不動の信念というものが培われて、生まれてくる。
 それにはそこに場合にはくそ度胸でも据えて、そのくそ度胸が本当の度胸になってくるだけの、それからの信心の展開がなからなきゃいけん。例えばその今日の御理解を頂く事については色々頂いた。あの猿蟹合戦ですかね。猿蟹合戦のあの猿と蟹との、あのお話がございますでしょう。猿と蟹とがその柿の種とおにぎりを変えて、蟹は自分が食べられる、自分のままになるおかげを空しゅうした。なくした無くしてそして子供のためにと思うて柿の種と変えた。
 さぁその柿の種を変えて植えて、さぁ芽が出れ葉が出れ実がなれという風にして育てた。おかげで実がなった。実がなったらその実のために今度は親蟹そのものが、命を落とすような結果になったんです。こんな馬鹿な話ないですよね。ですから自分のそのままになる自分がままになる、おかげをつぶすという事は、親として大変これは犠牲的な心ですから有り難いですよね。
 もう子供のためなら、食べるものは食べんでん良かというのですから。食べるものも食べずにそれこそ爪に火を灯すようにして、貯め上げたいうなら財産です。子供が出来損のうちから、却っておかげを落としたというのと同じ事なんです。だからここんところをですね、そのままになるおかげを潰して犠牲にしてね、私が何十年前に頂いておる御理解の中に、「ままになるおかげを潰して、神酒にせよ」と仰っておられます。みきというのはお酒です。いわゆる猿蟹合戦の蟹はお神酒にゃしなかった。
 たぁだ子供可愛いの一念だけだった。そして子供に財産を作ってやった。その財産のために命を落とした。そこでそのままになるね自分の子は食べられるおかげを頂いておるけれども、これを犠牲にしてですよめ、それを犠牲にして柿の種を植えたと。それをねままですね。そのままをままになるそのお米を貯めておいて、それでお酒を作れというのである。子供のために徳を残しておってやれというのである。自分を犠牲石橋先生の生き方なんかは、これだったわけなんですよね。
 「ままになるおかげを潰して、神酒にせよ」と。ただ実がなれ葉がなれ葉になれだけじゃなかった訳なんです。ここんところに信心がある。今日はその事を頂いた。一つ次には頂く事がね。あのう皆さんは、あのう歌舞伎芝居で詳しい方は、ご存知でしょうけれども、あの傘を使うお芝居がいくつもあります。その中にあのう忠臣蔵の山崎街道のね。定九郎が花道に向かってから、あの出てくる時に蛇の目の傘を使いますね。破れた蛇の目傘を使って花道を出て来るところね。
 ここでは傘という事は安心ということです。例えば定九郎的なあり方。中にでも安心が受けられる。そすとあの歌舞伎十八番の助六。助六が出るお芝居がやっぱり蛇の目の傘を持って出るでしょう。いわゆる粋な華やかな傘ですよね。それからあの太平記の中にあります、松平伊豆守と何でしたかね、堀の深さを試そうとしている訳ですね、丸橋忠弥。その後ろから松平伊豆守が、傘をこうやってさし掛けるというお芝居がありましょう。今日はこの三つを頂くんですよ。傘同じ安心でもね色々ある。
 松平伊豆守がいわば丸橋忠弥にさし掛けてやるような傘。忠臣蔵に出てくる定九郎が持つような傘。または助六が使うような蛇の目の傘。どういう中にあっても人間はね。このどれが良いという事はないです。どういう場合でもあるんです。定九郎といや悪いことでしょう。なら人間は悪い事をせんかというと、悪い事をするでしょうがやっぱり。けども悪い事をしておってもね、安心のいただける道があるとですよ、信心を極めていくと。例えばほんなら粋ないき方とでも申しましょうか、まぁ合楽のいき方でしょうね。
 助六的な安心のおかげもある。今日は私はそこんにきも、大体聞いて頂いたように思うんです。華やかですねえ。かというと松平伊豆守が使う安心の傘、まこれが一番最高でしょうけれどもこうばかりはいけん。私共人間生活させて頂くには、様々なお粗末も御無礼も、色んなこともあるけれども、そういう中にでも実を言うたら安心が出来るおかげ。まぁそこんところを場合にはくそ度胸と言った様な事もあるけれども、そのくそ度胸が本当の度胸にもなり、それが安心にまで高められてくるようなおかげ。
 ここんところをそれこそ、まぁ時間をかけてお話したいけれどね。けどまた皆んなの魅力もここですよ。どげな悪い事したっちゃ安心のいけれる道があるというなら、誰でもはいはいと言うて、手を上げて来待ゃろと思うんですけれどね。けれどもそういう中にあっても安心の頂けれる道がある。天地の親神様の信心とはそういう大きい信心なんです。金光大神というのは、そういう大きな信心を頂かれたんです。ですから小さいですね、金光様の信心しよりゃあれも食べられん。
 金光様の信心しよりゃこげなものも、着られんといったようなですね。でなからなければお徳は受けられんと言った様な事はないという事を、大体は今日私皆さんに申したかったんですよ。そのためにはひとつ合楽の信心を本気でね、勉強しなければ、そこが分からんです、ここんところは。今日はまぁとりあえずですね、お互いがお取次ぎを頂く事によって安心が行くというのではなく。
 お取次ぎを頂いたらそりゃお任せするという事である。お任せしただけではいかん。それから先の修行がです、それから先の信心をしてやれと仰る。その信心によって安心が生まれてくると言う様な、おかげでなからなければね。信心してやれおかげを受けられると仰る、信心をしてやれというところは、例えば今日私共の豊美の事でも、長女の場合でもです、これだけのおかげを受けた。
 いうなら石橋先生とは反対のいき方をしよるが、その内容としては、私が親の私がこういう桜の花のようなおかげを受けたんですから、それには梅の花の信心というならば。柳のような信心を本気で身につけさせて頂きますという修行が、そこから願われておるわけです。そういうところから安心を受けるおかげを、頂かなければならんというふうに思うております。そして私は天地の親神様は、そういうおかげを頂いてこそです。
 本当言うたら慢心を出さずにおかげを頂きぬかせて頂いたら、天地の親神様はそういうおかげをこそ、私共氏子に願うておられるのである。金光大神の取次ぎによって最高のものが食べられ、最高のものが身に付けられ、最高の家に住まわせて貰うて、神様有り難うございますという、神恩報謝の生活が出来えることこそ、神の本当言うたら願いであるという事をね、知らなきゃならんと思うですよね。
   どうぞ。